こんにちは、整骨院自費導入アカデミー改め整骨院自費成功アカデミー主宰の松村です。
本当は、自費成功のためのブレークスルーコンサルの宣伝をしたかったのですが、どうしてかわかりませんがあまり良い文章が浮かばなかったので、どうせなら好きなことを書こうと思います
あ、でももう
・2018年1月27日(土)開催分→ 残り2名
・2018年2月4日(日)開催分→ 残り1名
ですから、もうあまり宣伝しなくてもいいっちゃいいんですけどね。
さて、いきなりですが柔道整復の源流は古流柔術にあると言われています。
実際、骨接ぎとして有名な「名倉家」も、骨接ぎを始めた名倉弥次兵衛直賢は、武備心流体術というものを学び、その中の「骨傷科の伝」というものを教わり、接骨術を研究したと言われています。
日本の整形外科医が「接骨より整形外科のほうが古い」と世界の医学の歴史を引き合いにして言っていますが、日本国内では間違いなく接骨のほうが古いです。
兵庫県整形外科学会のサイトから引用してみました。
1874 年 ( 明治 7 年 )、医制に関する 76 条 ( 内務省所管 ) 制定。
1876 年 ( 明治 9 年 )、医術開業試験開始。
医術を開業、営業するものはこの試験に合格しなければならなくなった。日本の医療は、西洋医学 ( ドイツ医学 ) 中心の医学となった。1883 年 ( 明治 16 年 )、医師免許規則公布、医術開業試験規則の改正。
これまでに存在した産科、眼科、整骨科などの専門医は医師に統合された ( 歯科医は別 )。1885 年 ( 明治 18 年 )、” 入歯歯抜口中療治、整骨術営業者取締方 ” ( 内務省通達 )
明治 16 年に行われた医術開業試験に合格したものでなければ、いかなる医業も新規に開業できなくなった。
従来の接骨業者は、既得権者としての ” 従前接骨業 ” として、医師とは別に、道府県庁の規則で取り扱われるようになった。1891 年 ( 明治 24 年 )、東京府令第 58 号 ” 入歯歯抜口中療治整骨営業者取締規則 ”
従前接骨業の業者 ( 古来からの骨接ぎ業者 ) は ” 接骨科 ” の営業を禁止され、骨接ぎ業者は激減した。
となっていますね。
明治18年までに、今までの「骨接ぎ」の人が医術開業試験に合格していれば医師として骨接ぎ業ができたことになります。もちろん、元々から医師という整形外科医も存在したでしょうけど、骨接ぎをしていて試験に合格した人もたくさんいたでしょう。
実際、
法制度上は、明治 9 年から医師である接骨医 ( 後の整形外科医 ) が生まれ、従来の接骨業者と共存していたが、明治 24 年、医師でない接骨業者は巷間から消滅していった。日本の骨関節外傷や疾患 ( 運動器疾患 ) の医療は、既存の伝統的な医術から、ドイツ医学を主とする西洋医学を導入して、発展的に解消して行ったと言える。
明治期の整形外科医療に携わった医師達には、従来の接骨業者から転進した者、従来の接骨術を修得した者なども様々いて、整形外科医療のある部分には、従来の接骨術が残されていた。
と学会のページも書いておりますし、
名倉直賢 ( 1750 – 1827 ) が、1771 年 ( 明和 7 年 ) に骨接ぎの施術所を開業し ” 千住の骨つぎ ” として関東一円に名前が知られ、名倉は接骨術の代名詞であった。
第 5 代、名倉謙蔵 ( 1866〜1939 ) は東京帝国大学別科を卒業し医師となり、1931 年 ( 昭和 6 年 ) 千代田区神田駿河台に、西洋医学を中心とした整形外科専門病院 ” 名倉病院 ” を開設した ( 現、名倉直秀院長 )。
第 6 代、名倉重雄 ( 1894 – 1985 ) は東京帝国大学医学部を卒業後、診療科としての整形外科が設置されていた県立愛知病院 ( 後の名古屋帝国大学医学部付属病院 ) に赴任し、1927 年 ( 昭和 2 年 )、名古屋帝国大学医学部教授となり、整形外科学講座を開講した。
千住の名倉家は、旧来の建物は名倉医院として現在は整形外科診療所 ( 名倉直孝院長 ) と、これに隣接した名倉整形外科 ( 名倉直良院長 ) になっている。
と、名倉家が整形外科の教育に大きな影響を与えたことが紹介されています。
もちろん、医療の勉強をせず、療養費を悪用して素人同然のスタッフにマッサージをさせる柔道整復師はいけません。
しかし、この歴史を見れば、整形外科の土台に我々骨接ぎが存在することは確かなわけです。
また、整形外科はあくまでも「外科」なわけなのです。
整形外科医の先生も柔道整復師をあまり目の敵にせずに、ちゃんとした柔道整復師もいっぱいいることを知っていただき、「外科」である整形外科がその本懐を忘れず、柔道整復師も非観血療法のプロとしての本懐を忘れずに、お互いが共存し、なおかつ地域の患者さんを救うことを考えるほうが生産的だと思います。
話を戻します。
名倉家は有名でしたが、その昔、地域に密着した名倉家のような骨接ぎはたくさんあったのかもしれません。
なんでも名倉の骨接ぎは、大正時代には1日300人もの患者さんが受診していたとか。
大正時代・・・
まだ国民皆保険制度はなかったと思います。
確か、第一次世界大戦の影響で健康保険法というのは施行されたのが大正3年かなにかですが、全員ではありませんでした。
それに、名倉家は江戸時代から続く骨接ぎです。
そもそも健康保険などなかった頃から骨接ぎをやっていたのです。
そういう「骨接ぎ師」は、名倉家以外にも間違いなく存在していたのです。
さて、話は変わりますが整体術のお話を。
全ての整体技術のことではないですが、整体の中にも日本の武術がベースの整体術が存在します。
現代は、いわゆる人を倒す技術(殺法)のみ伝承されている流派もあれば、人を治す技術(活法)だけを伝承している流派、活殺両方とも残っている流派と色々あるようです。私自身もある流派の古流柔術を習っていました(一応段持ちです)が、私が学んでいたレベルでは殺法のみしか教えていただけませんでした。
ただ、今の私の治療にむちゃくちゃ役立っていますが。
ということは、昔の骨接ぎ師は、怪我の人が来たら骨を接ぎ、怪我以外でどこか痛い人が来たら整体を施していたと考えられます。もしかしたら、健康管理の一環として身体を整えるようなことをしていたかもしれません。
さて、少し話を戻して骨接ぎの歴史をもう少し。
1891 年 ( 明治 24 年 )、東京府令第 58 号 ” 入歯歯抜口中療治整骨営業者取締規則 “により、医術開業試験に合格しなかった骨接ぎ業者 ” 接骨科 ” の営業を禁止されてしまうだけでなく、1911年(明治44年)に内務省令にて、按摩術、鍼灸術営業取締規則が制定、認定されていったにも関わらず、骨接ぎだけが何もないという状況になってしまいます。
しかしその翌年、楊心流という江戸時代初期にできたと言われる柔術の流派、その楊心流を学んだ人が作った神之神道流、その神之神道流を修めた人が作った天神真楊流の3つの流派の骨接ぎの人達が立ち上がり「柔道接骨師公認請願運動」という骨接ぎの公認運動が始まります。
天神真楊流と言えば柔道の源流のようなもの。
以前、某兵庫県会議員(当時)が
「柔道整復師は、柔道を取って整復師だけでいいんです」
なんてことを、某会の某支部総会でほざいていましたが、こういう歴史を知らないのでしょう。
見事落選してましたね。笑
話を戻します。
1912年(明治45年)、楊心流、神之神道流、天神真楊流の柔術家であり骨接ぎである人が起こした柔道接骨師公認請願運動が功を奏し、1920年(大正9年)に「按摩術営業取締」に
「柔道ノ教授ヲ為ス者ニ於テ打撲、捻挫、脱臼及骨折ニ対シテ行フ柔道整復術ニ之ヲ準用ス」
という項目が付け足され、資格制度としての第1回資格試験が実施されました。
やや「おまけ」的な要素はぬぐえませんが、これによって医術開業試験を受けなくとも骨接ぎとしてやっていけるようになったわけです。
ただ、これだと本来「柔術接骨師」でもいいはずです。
なぜ「柔道」なのか?
このあたりは、天神真楊流と起倒流を学び柔道を作った嘉納治五郎先生の影響もあるようです。
実際、嘉納治五郎先生は東京大学出身ですし、1922年(大正11年)には貴族院議員に勅選されていることからも、政治的なつながりや、当時見世物と化していた「柔術」を名乗るよりは「柔道」と名前をつけたほうが政府の受けもいいという作戦もあったようですね。
実際、柔道ができたのは1882年(明治15年)で、大正時代にはすでに柔道は柔術の試合における統一流派となっていることからも、当時の柔道が名前的にも政治的にもかなりの影響力を持っていたことが想像できます。
このあたりは今回の記事の本筋ではないので、詳細は「柔道整復師はどのようにしてその名を得たか」をお読みいただければと思います。
さて、実際、柔術家から講道館柔道の柔道家になった人たちも、道場をしながら骨接ぎをするという人や、骨接ぎそのものが本業という人もおられたと思います。そういう人たちは、健康保険などがない時代から地域に密着し、人々の健康に携わってきました。
いわゆる健康保険云々というのは、1936年(昭和11年)の話で、あはき法から独立し柔道整復師法となったのは1970年(昭和45年)とかなり最近です。
「骨接ぎが日本の武術とともに存在した」と仮定するなら、日本最古の柔術の流派である竹ノ内流は1532年(天文元年)にできたとされていますし、江戸時代初期にできたといわれる楊心流も医学的な技があったようですし、実際名倉家の骨接ぎの創始者も楊心流を学んでいます。
骨接ぎの技術自体は中国医学を見ると紀元前レベルに遡ってしまいます。
日本では、中国から亡命してきた陳元贇が1619年に、拳法とともに「正骨術」を長崎で伝えたとと言われていて、その拳法が柔術の源流だと言われていますが、先述した竹ノ内流は1532年にできていることを考えると真偽のほどはわかりません。
ただ、楊心流は江戸時代初期から存在していますし武備心流も江戸時代。
1700年代から日本の骨接ぎがあったと仮定したとしても、柔道整復師がいわゆる接骨院、整骨院的なことを業としていた歴史はすでに300年になります。
それと比較し、健康保険の扱いというのは、長く見積もっても約80年。
日本での骨接ぎの歴史からしてもほんの三分の一以下の期間です。そもそもこの健康保険の扱いにしても、元々は過疎地で病院がない人に対する措置的な意味合いが強かったようです。
もし先人の柔道整復師たちは
肩こりや慢性腰痛を、ただマニュアル通りにマッサージして
「捻挫」や「挫傷」などに置き換えてウソの請求をして、
骨折、脱臼まではいかなくとも、本当の捻挫や挫傷に対しての正しい治療すらできない
現在の多くの柔道整復師の姿
を見たらどう思うでしょうか。
なんと言うでしょうか。
もし私なら泣きますね。
情けなすぎて言葉も出ないでしょう。
明治時代に潰されかけたときも、昭和になって保険が扱えるようになったときも、戦後また潰されそうになったときも、「食っていけない」という切実な悩みとともに、柔道整復を愛している先人たちが、今すぐは自分の利益にならないかもしれない活動のために手弁当で注力した結果と、そういう先人たちが柔道整復師という仕事に矜持を持ち、地域に根ざして仕事をして、地域住民に愛されていたからこそ残ったのだと思います。
柔道整復師は、身体、健康の交番的な存在だったのではないかと私は思っています。
我々柔道整復師が、患者さんから「うちでできる」「ドクターに任せる」という判断を任せていただけるような存在であり続けなければならないと思うわけです。
このブログを書いた今日、私の院には足関節を捻挫した中学生が受診しました。
自費でも外傷の患者さんも受診されています。
私は、開業前の先生に相談を受けることも多いのですが、よく
「せっかくなので保険は残そうかと思って」
と言われる先生がいます。
「せっかく」って何やねん、と。
その「せっかく」は「せっかく使えるねんから、使えるうちは使っておきたい」という意味かコノヤロー。
そういう甘っちょろい発想で開業しようとするからダメなわけです。
外傷以外は「せっかく」もクソもないはず。
それこそこちらは
「せっかく開業するんですから、最初から外傷以外は自費でやったらどうですか?」
とアドバイスしてるわけです。
その「せっかく」というのは、
「一度グレーで経営を成立させてしまったら、そこから脱却するには非常に手間暇がかかるしストレスにもなるから、開業のときから真っ白な経営にしておけば楽ですよ」
という意味の「せっかく」なわけです。
先の先を見越したら、こんな発言ができるわけがないんですよね。
自費にするということは、柔道整復師として先祖返りをし、政治だ制度だ保険だと、骨接ぎの本懐とはかけ離れたことに注力することから卒業し、患者さんのためだけに注力できることだと思うのです。
それとともに、肩こりや慢性腰痛を「捻挫」だ「挫傷」だとウソをつかなくても済みます。
ウソついて稼いだお金で、家族、とりわけ自分の子供の前で堂々としてられますか?
業界としても、公的団体はいつまでも自民党だなんだとわけのわからないことに注力してないで、もっと柔道整復師の歴史を振り返り、なんとかこのウソをつき続けているという業界の状況を根本から変えていかないことには、先人たちが築いた、「220年分の国民の信頼」という貯金も使い果たしてしまうことでしょう。
明治時代と昭和のGHQによるもの、柔道整復師は消滅の危機を乗り越えてきています。
しかしそれらは、明治時代においても、昭和においても、飛躍的な捉え方をするならば西洋の医師の理論の横暴とも言えるものでした。
しかし現在は違います。
完全に柔道整復師に責任があります。
整形外科はここぞとばかりにバッシングし、それに反論することすらできません。
柔道整復師が、保険でワンコインでマッサージをしたことで、過去に患者を奪われたあん摩マッサージ指圧師業界は、今頃ほくそ笑んでいるかもしれません。
一般の方々は、回答書が来る度に「柔道整復師に騙された!」と思うかもしれません。(実際、そう主張される方が当院を受診されています)
このままでは本当に淘汰されてしまいます。
いつまでも、悪しき習慣に固執していてはいけないのです。
本来、これらの責任は我々世代の柔道整復師にはありません。
もっと前、保険制度を悪用することを思いつき、それを広げていった世代が責任を取るべきだと、個人的には思っています。
ただ、それは無理な話。
当時の柔道整復師の多くは、すでに保険で荒稼ぎし、ビルを持って家賃収入を得ていたり、孫もできて貯金もあるから細々やるだけでよかったりして、もはや表舞台からは消えていることが多いです。
今後、柔道整復師として飯を食っていく私たちが、ケツを拭かないと仕方ないのです。
本当にムカつくことですけどね。
でも、悪いことではありません。
ウソをつかずに仕事できるのです。
これは、アカデミー会員の先生もみな「これほどストレスフリーになるとは!」と驚いております。
我々が、患者さんのことだけを考えて、やりがいを持って仕事する姿を次世代の子たちに見せ続けることで、金儲けではなく、治療する姿に憧れた子たちが「柔道整復師になりたい」と言ってもらえるようにすることしか柔道整復師が淘汰されずに今後残っていく方法はないのです。
柔道整復師になりたい、という子がいなくなれば、柔道整復師は消滅してしまいます。
だからこそ、自分の子世代に憧れられる職業でいるためにも、「外傷以外は自費」にしなければならないのです。
最後に、柔道を愛する柔道整復師として一言。
最近は、柔道を軽んずる学校も増えているようです。
また、柔道をしていないで柔道整復師になった先生の中には、柔道が嫌いだとか、無意味だと思っている先生もいるでしょう。
公的団体でも、柔道家をバカにする偉いさんが存在してます。
歴史的にみると、今、我々が柔道整復師になることができたのは、柔術家、柔道家のおかげでしかありません。
また、私自身が臨床において、柔道、柔術をやっていてよかったと思うことが非常に多いです。
柔道をしていなかった柔道整復師が専門学校の教員のほとんど、という場合もあると思います。
学校でも、ぜひ学生に柔道整復師の歴史をしっかり伝えるとともに、その魂も伝授していって欲しいと願わずにはいられません。